集中・集注

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仕事でも勉強でも、だらだらと休み休み続けるより、やる気がある時に一気に集中した方が、質の高いものになることがあります。

作家がホテルの部屋に閉じこもって原稿を書いたり、ミュージシャンがわざわざ海外のスタジオでレコーディングをしたりするのも、その作業に集中せざるをえない環境を作るためでしょう。

スポーツ選手は必ず合宿をしますが、一週間の集中したトレーニングが、ダラダラした一ヶ月のトレーニングよりも効果があるからなのでしょう。

 

集中して何かを行うということは、その対象に注意を集めるということです。

注意が凝縮されているから、単純なことから多くのことがわかるし、結果が得られるのです。

 

よく例に出す話ですが、産後のお母さんは本来、赤ちゃんに集注するようにできています。

他の事には頭が働かないようになっています。

だから、他人が聞けば「オギャー」としか聞こえない赤ちゃんの声を聞き分けるし、お腹が空いての「オギャー」なのか、オシッコをしたくての「オギャー」なのかも分かる、さらに敏感なお母さんだと、泣く前に分かってしまいます。

しかし産後すぐに仕事の心配をしているようだと分からなくなるし、育児書を読むことで頭がいっぱいの人にはわからないようです。

それは赤ちゃんそのものに集注していないからです。

 

体操をする時も、自分の体に注意を集めるか否かで、その効果には大きな違いが出ます。

その体操をしている時に、どこが伸びているか、どこで引っかかっているか、どこが気持ちいいか、そうした体の中で起こる感覚に注意を集めるのです。

鏡に映った自分の姿を見て、綺麗にポーズが取れているかどうか、他の人より関節を多めに開いているか、などはどうでもいいんです。

 

集注度が高まると、同じ体操の繰り返しでも、色んな発見ができます。

ただ首を回しているだけでも、ゆっくり、集中して回せば、それはただ首が回転しているだけの運動ではないことが分かるはずです。

 

足湯や温湿布も、その感覚に集注してやることに意味があります。

気持ちよさや熱感が広がっていく感覚や、別の場所に響く感覚などに注意を集めるのがコツです。

終わってからもしばらくは余韻に浸るべきでしょう。

そうでなければ、ただ温かいだけで終わってしまいます。

 

整体には「愉気法」というものがありますが、これなどはただ手を当てている、乗せているだけです。

それだけの刺激とも言えない程度の刺激が有効な理由は、そこに「集注」があるからです。

集注することなくただ手を乗せているのでは、物を乗せているのと大して変わりません。

 

集注度が高まっていれば、手を乗せる前から愉気法が始まっているようなものです。

相手に注意をしっかり向けて話せば、言葉以前に声そのものが愉気にもなり、視線が愉気にもなります。

 

赤ちゃんにお乳をあげるのも、家族の食事を用意するのも、ただ栄養のかたまりを与えるのではなく、心を注ぐ行為です。

仮に赤ちゃんの泣き声の意味が分からなくても、自分の体の感覚が読みとれなくても、とにかく感じてみようとすれば、それだけでも注意は向きます。

注意が向くだけでも少しは安心できるものです。

逆に注意が向いていないと、いろんなことを数多くやっても、何か物足りなさ、不安が残ってしいます。

 

健康法も訓練法も、やたらと数を多くすると注意は薄くなりがちです。

一つ一つに集注して行えば、さほど多くの知識も必要ないでしょう。