心の枠を外す

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体調を崩して病院に行く時は、「悪い病気でありませんように」と願うものです。

そして実際、軽いものだと診断されればホッと一安心できるかもしれません。

 

しかしその心の裏で、軽く見積もられたことに不安、そして不満さえ感じてしまうこともあります。

「ただの風邪」とか、「疲れが溜まったんでしょう」などと言われると、逆にもっと複雑な病名をつけて欲しい、と思ってしまう心があるのです。

 

人は枠にはめられることを嫌う一方で、完全に自由になることに対する恐れもあります。

血液型でも、整体法の体癖でも、「○○型のあなたは人付き合いが苦手でしょ?」などと決めつけられたのでは、いい気分ではありません。

しかし後々、「その○○型ってどんな特徴があるのだろう?」というのが気になって、ついつい調べていたりします。

 

逆に「別に何型だなんて気にしなくてもいいんだよ」と言われると、その分類から除外され、仲間はずれにされたかのような気分になる、そういう矛盾した心理が、一人の人の中に混在しているものです。

 

最近では、個性を伸ばす教育の重要性とか、個性を活かした仕事のしかたについて言われるようになりましたが、従来よりシステム化された環境で育ってきた私達にとって、本当はそのシステムという枠から離れるのはとても勇気のいることなのです。

だから文句を言いながらも、他の人と同じ様なスタイルで生活をし、他の人と同じ様な進路に進み、我が子とよその子の性格の違いや、発育ぶりの違いに一喜一憂する、というようなことを繰り返しているのでしょう。

 

そのような「枠」に対するこだわりは思いのほか強く、なかなか自分で意識することは難しいことです。

しかし平均値である「枠」と、自分自身の本来の姿(個性)とのギャップが大きくなり、限界に達した時に、人は体や心に異常を来して訴えるのだと私は考えています。

そういう意味で、病気や様々なトラブルは「きっかけ」と捉えることもできます。

 

病気についても、つい自分自身で枠を求めてしまうことがあります。

それは病名へのこだわりです。

相談を受ける際、私も聞いたことがないような病名や、舌を噛みそうな程言いにくい病名をスラスラといくつも並べる人などを見ると、失礼かとは思いながらも、その人の病名に対する執着を感じずにはいられません。

読み方も分からないような難しい漢字の病名や、専門家しか使わないような用語をスラスラと書き綴る人もいます。

ご本人は正確に伝えるべきだと思ってそうしているつもりかもしれません。

だからそのことを悪く思うことはないのですが、苦労話が好きな人ほど苦労から抜け出せないのと同じように、そうしたこと自体も、自分自身を病気の枠にはめてしまうという効果があります。

 

病気を見るのではなくて人の心身を見るのが整体だと私は考えていますから、私のほうが病名に対しては無知な場合も多いのです。

私が言い間違えたり、聞き返したりすると、怪訝な顔をされる方もいますが、医学的にしっかり見て欲しい人は、病院に行くべきです。

 

自分の病気を医学的にしっかり知ることも大切なのかもしれません。

しかし一方で、病気という枠の外にも目を向けて、健康になってどうしたいのか、その一部でも今現在できること、できていることはないか、現状の中にも幸せを感じられることはないか…ということに心を向けてみることも大切なはずです。