誤差

以前、ある工場の設備について聞いたことのある話なんですが、その工場の設備は、複数のメーカーから取り寄せた部品を組み立ててできているそうなんです。

ところがその部品は、メーカー毎に、細かな単位が統一されていないというのです。
A社では1ミリ以下の寸法は切り捨て、B社では四捨五入・・・というように別々の基準で作られていたというのです。

それらを組み合わせて出来た設備で日々操業していた結果、少しずつズレが大きくなっていったのでしょうか、あるとき大きな事故を起こしてしまったそうです。
何十メートルもあるような大きな部品の組み合わせです。
1ミリ以下の違いくらい、大した差とは言えないかもしれません。
しかしその誤差が原因で、大事故につながってしまった、という話です。
話は変わりますが、『整体』といっても、いろんなものがあります。
不器用な私はどうしても、その「いろんな整体」を、同時に組み合わせることがとても苦手でした。

同時進行で別々の先生の整体を受けたり、別々の先生に習ったり、ということがとても苦手でした。

だから私は、別の所で習う場合は、今までのことは捨ててもいい、場合によっては否定する、という位の勢いで臨んでいました。
実際、否定せざるを得ないほどの違いを感じることは度々ありました。
とはいっても、別のところと時期が若干かぶった程度のことはあります。
「時には別のものも経験する必要がある!」と思って、無理矢理並行して習ったこともありました。

だけど、どうしても続きません。
「誤差」が気になって仕方なかったからです。

いや、それは誤差という程度のものではなかったかも知れませんが、とにかく違う考え方、違う見方のものを、どちらも同じ枠に収めることがとても嫌だったのです。
別々のものを同じ枠に収めるためには、どちらも似たような形になるまで削らなければなりません。

そうすると、どちらも、違うものになってしまう。
本来の、元々の姿とは違うものになってしまうからです。
わざわざ、別のものを習う必要がなくなってしまいます。
同じ『整体』であり、そして同じ流派の整体であったとしたら尚更、似ている部分はあります。
だけど似ているけど違う、その微細な違いこそが、それぞれが別々に存在している理由のはずです。

だから、そこを削るわけにはいかない。
色んなものを平均化するように削って、「みんな共通点があるから」という考え方もあるでしょう。

わざわざ平均化することで、「やっぱり今までやってきたことは間違いじゃなかったんだ!」と、自分を慰めることもできるでしょう。
だけど、人の体や心を見るっていうことは、そんな平均化したような視点じゃダメだと思うんです。

他の人と似ているけど、だけどその人にしかない『誤差』のような違い、そこにその人の個性があり、そして悩みや病の本質があるのです。

神経質かもしれないけど、誤差を誤差でごまかさない、精度の高い観察が、身体や精神の世界には必要なんじゃないかと思います。

その精度をあげるには、やはり一つのことを突き詰めていかなければ無理です。
一点を集中して見続ける、その集中力も必要でしょう。
そういえば昔、ある先生に、文字通り、紙に描いた一点を凝視し続ける・・・なんていう訓練法を指導されたことがありましたが、まぁその訓練の成果のほどはともかく、繰り返し見続けないと見えてこないものは確かにあります。

そうしないと、どんなものも同じように見えてしまうのです。
「自分に合うものを見つける」とか、「自分らしさを発見する」なんていうのも、本当はそうだと思うんです。

自分の体や心のサイズにピッタリ当てはまるものっていうのは、とことんこだわらないと見つからないはずです。

ミリ単位でも狂っていると、どこか着心地が悪く、違和感があるはずです。

その違和感を抱えたままずっと自分を「操業」していくと、やがて工場が事故を起こしたように、体や心が崩れ始めていくんです。