存在意義、自分の価値

体と心の話

「自分の存在意義を確かめたい」とか、
「生きている意味を知りたい」とか、
「自分の価値を確かめたい」とか・・・

そういうことを言う人も多いけど、そういう人は、

「ハイ、これが存在意義です」とか、
「私が生きている意味は□□です」とか、
「私は○○だから価値がある」とか、
その意義とか意味とか価値とかが、言葉で言い表せるようなものだと思っているのだろうか・・・なんて、私は感じてしまうのです。

 

存在意義とか存在価値っていうのが、何かの物差しで測れるものだと思っているのだろうか?

測れるものにしか、価値や意義がないのだろうか?・・・と思ってしまうのです。

 

それって実は、測れる「示せる」ものにこだわっているだけなんじゃないだろうか?

本当は自分に向けてじゃなくて、「他人に向けて示せるもの」にこだわっているんじゃないだろうか?と。

 

何かの資格を持っているとか、著名な先生の弟子だったとか、一流企業の重役になったとか、それはそれで立派なことでしょう。

しかし結局その資格も、著名な先生も、一流企業も、自分が作った物じゃなくて、元々あったものに、自分を当てはめたにすぎないわけです。

 

それが自分そのものというわけじゃなくて、資格とか、弟子とか、企業とかの『衣装』を着ただけです。

別の人がその衣装を着たって、成り立つわけです。

 

意義とか価値とかって、そんなふうに替えのきくところにあるものなんでしょうかね?

「立派な生き方」みたいなカリキュラムを修了して、そのカリキュラム通りの生き方ができるから、その人に価値があるのでしょうか?

それは、カリキュラムの価値なんじゃないでしょうか?

カリキュラムの存在意義なんじゃないでしょうか?

 

「○○式子育て」を完全マスターしたからといって、それで親としての価値が上がるのでしょうか?

「○○式」の講師からは褒められるかもしれません。

そして声高に「○○式」を周りの人に説けば、周りの人たちから尊敬されるかもしれません。

 

だけどそれは、「○○式」の価値や意義にすがりついているだけなんじゃないでしょうか?

仮に「○○式」が無くなってしまったら、その価値など消えてしまうんじゃないでしょうか?

 

そうやって、何か別のものによって示される価値や意義が、本当に自分自身、自分そのものの価値だとは、到底私には思えないのです。

 

人から「存在意義」とか「存在価値」とかを感じるときっていうのは・・・

その人と喋っていると、つい時間が経つのも忘れてしまう・・・とか、
困った時に、相談してみたくなる人とか、
理由はわからないけれど、一緒にいると安心できる人とか・・・

 

仮にその人が、職場ではミスばっかりしてて、ダメ職員呼ばわりされている人であっても、子育てに自信がもてなくて、悩んでばっかりいる人であっても、相談してみても、何の助けにもならない人であっても。

存在意義とか価値とかって、本当は、そういうものなんじゃないかと、私は思うんです。

 

何か形がないと、測れるものがないと、ダメなんですかね?

「そういうものがないと、自分に自信が持てない」という人は、他人に対しても、知らないうちにそういう目で見ているはずです。

 

モノサシしで量れるものにしか価値や意義を認められないということは、人そのものに価値が見いだせないということです。

だから、いくら頑張っても、自分に価値など見いだすことが出来ません。

価値ある「モノ」を探すことしかできません。

だから、自分を大切に思うことなんてできないんです。

同時に、他人を大切に思うこともできないでしょう。

やっぱり、そういう考え方は、変えていったほうがいいんじゃないか、と私は思うんです。

 

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