体、心の栄養吸収と「感謝」

体と心の話

時々、ものすごく久しぶりに来訪される方がいらっしゃいます。

つい先日も、約4年振りの方がひょっこりと来られていましたが、こういうことも珍しいことではありません。

 

以前は頻繁に通っていた人でも、何らかの事情で急にくることができなくなる、ということは、よくある話です。

例えば、引っ越しをして家が遠くなったとか、転職してしばらく時間の調整ができず、そのままズルズルと数年・・・・とか。

 

そういう事情を、報告しないまま来なくなることもあるのですが、でもそれも、遠慮して報告しないでいることもあるようです。

「別に私の個人的な事情を聞いてもらう程、私は特別な存在ではないし…」とか。

全然、そんなことないんですけどね。

 

そんなふうにご無沙汰してしまった方でも、ひょっこり姿を見せてくれるのは、とても嬉しいことです。

ちょっと大げさですが、まるで「見捨てられてなかった」みたいな(笑)、「覚えていてくれていたんだ」みたいな、そんな嬉しさもあります。

 

「ほんとは、ずっと来たかったんですけど・・・」なんて言われるともっと嬉しいし、「久しぶりに来れてよかったです」なんて言われると、さらに舞い上がります(笑)

 

やっぱり、求められること、満足してもらえることというのは、嬉しいものです。

自分の存在価値とか、自信とかって、やはりそういう体験によって確かになってくるものですしね。

 

 

話は変わりますが、この「求められる」「満足してもらえる」こと自体が、そのまま「感謝する」ということになるんじゃないかと、私は思うんです。

 

「感謝してます」とか、「恩を感じています」ということを相手に言葉で伝えるよりも、求めること、喜ぶこと、そのこと自体が、既に相手への感謝の表れなんじゃないか、ということです。

 

食べ物でいうと、美味しく食べることそのものが、生産者や自然の恵みに対する感謝の印なんじゃないか、と。

だから、無理してでも食べることとか、好き嫌いせずに何でも食べることとか、それはちょっと違うんじゃないか?と。

もちろん、食べ切れもしない料理を注文したり、欲しくもない食べ物を買っては捨てて…なんていうのは問題外ですけどね。

 

つまり、思い切りお腹を空かせて、そして食べたくてたまらなくなって、それでガツガツ食べて、満たされて満足・・・

これって、一番幸せな食べ方だと思うし、食べられ方なんじゃないかと思うんですね。

 

一方、「これは体にいいんだから、美味しくなくても食べなさい」とか、「食事の時間だから、お腹が空いていなくても残さず食べなさい」と言われ、無理矢理食べさせられても、感謝なんて湧きませんよね。

 

そこには『喜び』がないからです。

「感謝しなさい」なんて言葉で言われても、喜びのないところに感謝は湧きませんから。

 

その食べ物の生産者も、苦しそうに、無理矢理食べさせられている姿を見て、いい気分にはならないでしょう。

 

それよりも、たとえ少々行儀が悪くても、腹ぺこの子どもが口の周りを汚しながら、自分の作った食べ物を夢中でがっついている・・・

そんな姿を見た時のほうが、嬉しいんじゃないでしょうか?

 

 

そもそも、体にとっても、そんな食べ方がいいはずがないんです。

計算上は栄養のバランスが取れた食事であったとしても、体がそれを求めていなければ充分に吸収などしません。

 

まず、充分に欲求があること、腹ペコであることで「ありがたみ」がわかり、そして満たされることで満足感と感謝が湧く。

体も心も、そうやって育っていくものだと思います。

 

 

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