恥ずかしい存在

私は以前、極度に苦手としていたことがありました。

それは、「一人で店に入る事」です。

 

もちろん、一人で買い物も出来ないのでは不便です。

だからコンビニとか、ガソリンスタンドとか、最低限必要な買い物をするのは割と平気だったんです。

頻度も多いし、慣れていたのだと思います。

 

でも、例えば高額な電化製品を買うとか、衣類を買う時とか、あまり頻繁に行かない店に行くのはとても苦手でした。

どうしても一人で行く必要があるときには、とても緊張していた覚えがあります。

 

中でも最も苦手だったのは、飲食店に一人で入ることでした。

20代前半の頃までは本当に「恐怖症」と言っていいほどのレベルでした。

どうしても一人で食事をしなければならない場合などは、何件も店の周りをウロウロした挙げ句、一番入りやすそうな店に意を決して入る・・・その頃には歩き疲れてクタクタ、なんていうことも何度もありました。

 

でもそれもおかしな話で、私は15歳の頃から既に、ラーメン店、喫茶店でのアルバイト経験があったのです。

バイト先では毎日、一人で来店するお客さんを観ていました。

みんな堂々と店に入って来て、好きなものを注文し、自由に、思い思いの過ごし方をしている。

そんな様子を、当たり前の事として観ていたのです。

全く珍しいことだとも、恥ずかしいことだとも感じたことはない筈だったのです。

 

でも自分が一人で店に入ろうとすると、とてつもない緊張と抵抗感が湧いて来てしまう。

しまいには自分にいろんな言い訳をして、逃げようとしていたりもしました。

 

「別にお腹なんて空いていないし、店に入るのはやめよう」とか、

「店で食べると高いから、コンビニでパンでも買って食べよう」とか。

 

そんな事ばかりの繰り返しだったので、自分自身でも、これは克服しないといけないな、とは思っていました。

自分で自分に言い訳している姿は、とても情けないものです。

そのことは自分でもよく分かっていました。

 

それで、ある時期から「これは克服しなければ!」と思い、オドオドしながらも、一人で店に入ることを繰り返すようにしていきました。

 

そしてやがて、勤め先の関係で、昼食はほぼ一人で外食しなければならない環境になったのもあって、ようやく慣れていったのでした。

今では、チャンスがあればすぐに一人でラーメン屋に行ってしまう程です(笑)

 

 

ところで、私はなぜそこまで、一人で店に入ることが恐かったのでしょうか?

平気で入れるようになってからも、よく考えてみたことはありませんでした。

単に「慣れてないから」程度のことと思っていたのでしょう。

 

でも、今考えてみると、色々な理由があります。

色々なことが恐かったのです。

そしてそこには、根深い問題が潜んでいたのでした。

 

一番恐かったのは、店員さんや他のお客さんの目です。

もちろん、別に誰も私のことなど見ていないし、気にしていない、そんなことは分かっているつもりでした。

見ていたとしても、特別に恥ずかしい恰好をしている訳じゃなかったし、一人で店に入る事自体も決して恥ずかしいことじゃない、と分かっているつもりでした。

だけど、何故か「自分は恥ずかしい」という思いがあったのです。

 

極端に言えば、「自分は恥ずかしい存在で、居るだけで恥ずかしい人間なのかもしれない」と。

 

他にも、料理を注文すること、あるいは欲しいものをレジに持っていくことも恐かったのです。

「恥ずかしいものを注文していないだろうか?」

「恥ずかしいものを買おうとしていないだろうか?」と。

 

そもそも、その店のメニューに書いてあるものしか注文しないんだし、その店で売っている商品しか買わないのだから、恥ずかしい筈なんてないんです。

そんなことは、分かっているはずだったんです。

 

それに、自分が今までに働いていた店でも、メニューに書いていないものを注文するお客さんとか、店頭にないものを欲しがるお客さんも散々見て来た経験があるのです。

そういう人にくらべれば、自分は全くもって「普通」のお客さんの筈です。

 

なのに、ものすごくオドオドしながら注文したり、真っ赤な顔をして商品をレジに持っていったりしていたのです。

 

かなり挙動不審だったかもしれません。

おかしな話ですよね。

 

でも私の中には、常に「自分は恥ずかしい存在なのかもしれない」という不安があったのでしょう。

それも、そういう思いを意識していたのではなくて、自分でも気づかない、無意識の不安です。

 

そんなことを考えるようになったのは、今の仕事を始めてからのことです。

ただ、ある出来事がきっかけになっているような気もします。

 

それは、私の祖母が亡くなった時のことでした。

 

葬儀は実家付近のお寺で行われたのですが、当時、実家には2〜3歳の甥がいました。

前夜から、多くの人が実家に集り、家の中は大変賑やかです。

そして多くの親戚達に可愛がられて、甥のテンションは上がり気味でした。

でも厳しく注意されたのでしょう、葬儀の最中は比較的静かだったように記憶しています。

 

そして葬儀も一通り終わり、みんなで一息ついていた頃、私が甥の遊び相手になっていると、再びテンションが上がってきました。

大きな声を出し、部屋の中を踊りながら走り始めました。

 

そんな甥の様子を見て、私の母はため息をつきながら私に話しかけました。

「この子が、もうちょっと分かってくれたらいいのに・・・」

「分かってくれたら」というのは、「今日がどんな日であるか、もうちょっと空気を読んでくれれば…」という意味です。

でもそんなこと、言っても仕方ないということは、母も分かっていたことでしょう。

ただ葬儀の慌ただしさの中で、思わず口に出てしまった愚痴なんだと思います。

 

その時、陽気に走り回っていた甥の足が、ピタリと止まりました。

同時に・・・甥に向けられたはずのその言葉は、何故か私の胸にもグサッと突き刺さりました。

 

一気に表情が陰り始めた甥の姿が、まるで幼い頃の自分のようにも見えました。

「なんでいつもアンタは×××」とか、

「またそんなものばかり欲しがって!」とか、

「また余計なことばかりして!」とか、言われた時の自分・・・

 

そんな中で、私は自分を「恥ずかしい存在」「迷惑ばかりかける存在」「間違いばかり犯す存在」なのかもしれないと、思うようになってしまったのかもしれません。

 

もちろんそれは「勘違い」「思い込み」のはずです。

親自身の苦悩から、つい、その場でポッと出てしまった言葉にすぎません。

常日頃、「この子は恥ずかしい…」なんて思っている訳ではないでしょう。

でも、そのポッと出た言葉の繰り返しが、時には子供に一生つきまとうものになってしまう可能性がある事も事実です。

 

私達大人も、そんな思い込みを沢山抱えて生きています。

まずは私達、大人自身が、その数々の思い込みを剥がしていかなければならないのではないでしょうか。

 

私が一人で店に入ることに不安を感じていたように、なかなか抜けない不安とか、なかなか解決できない問題とか病気とか、繰り返す失敗とか・・・

実はそういった問題の背後には「勘違い・思い込み」が潜んでいるものです。

 

そしてそういった問題そのものが、思い込みを剥がすための最初のアクセスポイントになるはずです。

 

ただ、そのアクセスポイントはとても小さい穴のようなものです。

じっくりと、腰を据えて、正直に向き合わないと、見えてきません。

そして、一人で店に入る事を繰り返して慣れていったように、徐々にその癖を軌道修正していかなければならないのだと思います。

 

 

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